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    「うむ、うむ」

    「なんだ、さつぱり判らんぞう」

    房一はその玄関土間に足を踏み入れて、

    その時、道平がのつこりと診察室に上つて来た。やはり尻はしよりの下から真黒い両脚を円出まるだしにしたまゝで。房一が考へこんでいるのを見ると邪魔をしてはいけないとでも思つたらしく、そのまゝゆつくり診察室の中を見まはして、何か口のあたりをもぐもぐさせた。それから、医療器具棚に近づくと、そのうるんだはつきりした眼で熱心に中をのぞきこんだ。そして又、口のあたりをもぐもぐさせた。それはこんな風に云つているやうであつた。

    江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、先まず箱根まで行くには国府津こうづで汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊りならば格別、更に山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠やまかごに乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通に止まって、湯本以上の登山電車が開通するようになったのは大正のなかば頃からである。そんなわけであるから、一泊でもかなりに気忙きぜわしい。いわんや日帰りに於てをやである。

    前には俄かに急になつた路面がいつのまにか狭せばまつて来た山合ひにぐつととつついているのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでいた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気うんきのある靄もやに包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。

    が、房一をよく知つている者にとつてはその低い居場所がよけい注意をひくらしかつた。千光寺の住職は何気なく一座を見廻しているうち、思ひがけない所に房一を見つけ、ちよつと顔色を動かせた。それから、時折房一の視線を捕へて会釈ゑしやくしようとしたが、遠くて駄目だつた。庄谷は逸早く房一の席に気がついたらしい、が、その殆ど白味ばかりのやうな細い眼にちらりと微笑を浮べたきりだつた。

    「鮒?――それあ喰べるとも」

    「もう、だいぶようなつたですわ」

    控へ目に坐つて、注いだ茶碗を盆の上に揃へると、

    私は東京にいたころから、一日に三度四度ずつ入浴する習慣だった。しかし、うすい木でつくられた普通の沸し風呂では、冷めるのが早く、たけば熱く、こんな忘我の状態を経験することはできなかった。

    徳次も笑顔になつていた。だが、それは甚だ不器用なもので、絶えず紅らんだり力んだりしながら、眩しげに房一を見たかと思ふと、又当惑したやうな顔になるのであつた。

    が、今夜は入口の大戸が開け放たれ、土間には打水がされ、眩まぶしいほどの電気で照し出され、絶えず出入りする人の気配と、土間づたひの台所の方から流れて来る何かの匂ひや湯気で温ぬくもつた空気のために、この広い店の間は何年か振りに息をふき返したやうであつた。店の間の突きあたりには美しい紅味を帯びた褐色の塗りのかゝつた造りつけの戸棚が四間の長さにわたつてどつしりと立つていた。それはこの何もない単調な部屋に一層重厚な装飾的効果を見せていたが、その上には更に鍵屋の定紋である下り藤のついた四角な箱がずらりと天井近くを横に並んでいた。それは恐らく提灯を蔵しまつてあるのだらうが、木箱の上に厚い和紙張りを施され、その白地に黒々と染め抜かれた大きな紋はこれ又ふしぎに冴え冴えとした色調を以て浮び上つていた。ふだんは日中でもほの暗く、したがつて一様にうすい埃を被つて沈んでいるこれらの物が、今やいつせいに生き返つたやうに見えた。

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